スポーツと賭博あるいは薬

スポーツに限ったことではないと思いますが、人生何かを極めていこうとした際に訪れる誘惑というものがあるという話で、人という生き物がいかに不完全で、もちろん不完全でよいのですが、むしろ極めることを求めるあり方のほうに問題があるという視点にはおそらく社会は気づきにくいものだという話ではないでしょうか。

保育所落ちたブログはおそらく本人の思惑を超えて超有名になりましたが、あの中に、金に汚かろうが不倫してようがかまわんが保育所増やせよというような意味のことが書かれていましたよね。中国の歴史小説史書などを読むと想像できるのですが欠点があるものときには犯罪を犯した者すら権力者は召し抱えてその人の能力を活用しようとします。たいがい、戦争に勝つ側は、窮した人たちを救い、こんな私でも重用してくれたと恩義を感じ忠誠を尽くす、というシナリオになっていくのですがどこまで信ぴょう性があるかは歴史のことで不明な点もありましょうが、あながち一笑に付すべきとも思えません。

ともあれ、現代資本主義社会の競争激化の中で、すべては直接的間接的な原因は利害にからむことが多いため、スポーツ選手を取り巻く環境だって金にまつわるものがあるわけで、彼ら彼女らは純粋にスポーツを楽しんでいられるというわけでもないことが私は本質だと思っています。まして、オリンピックというものがあんなに国を背負わせるものになっている世界で、どうかしていると思わせない現状は、およそ異常だと私は付け加えたいところです。

宝くじを含めて公営ギャンブルは認められている、なぜ?射幸心をあおることを否定しないのは、ある程度抑制的な機能が人間社会に備わったればこそ、そうした快楽を人生のプラスにしましょうということなのではないのか。宗教によってはそれを悪ととらえる向きもありますから、一概に判断を下せないまでも。

人間の不完全性を許容しつつセーブする社会に。