テロに屈しない、ということ

テロに屈しない、という言葉が「先進国」側から語られるとき、その意味を考えること、深めることから遠ざかってはならないと戒めたい。

いくら「テロに屈しない」と声高に叫んだところで、何の意味があろう、と気づくかどうか。世界中を戦渦に巻き込んだ第二次世界大戦以降、70年という節目を迎える日本がこうした新たな世界的な危機を実感することとなったことになった。このことをどう受け止めるかが、過去の戦争を実践的に反省、総括することにつながる。

「テロに屈しない」とは、勇ましく、好戦的になることなのか、空爆や地上戦を展開することなのか、人の命を最優先する選択をしないことなのか。人命最優先でないとするならば、それははたして「彼ら」となにがどう違うというのか。


世界で、日本で、価値観の違いが苛立ちの中で増幅しいっそう対立を深め始めて、安全が保証できなくなりつつある。(2015年1月28日)


■追記(FB投稿文)

厚木市制施行60年。これも節目ながら、戦後70年、もしっかり受け止めなければと思う、のは、第二次世界大戦というものの終結以降、第三次世界大戦の危機を人類は回避してきたわけですが、いまの局面は、かなり深刻さにおいては世界大戦に匹敵する可能性がないでしょうか。

一般にピケティが読まれるほど資本主義への懐疑は深まっているのに残念ながら対抗しうる理論はまだ実験の過程でしかない状態。国家では中国やロシアは理想足りえず、EUもまた困難の中、理想は宙をさまよっているかのようです。

先進国の横暴についての反省無きまま「敵はすべて殲滅せよ」とばかりに結束を呼びかける米国と呼応して終結する「有志国連合」は、世界を平和に導くとでもいうのでしょうか。

いのちをなにより大切にするという政治は「彼ら」だけでなくこちら側にすらすでにないのではないか。あんなやつは死んでも当然とやらの言い分を聞くにつれ、その恐ろしさたるやわたしにとっては同じでしかないのです。

国会は論戦を開始し始めました。論戦は、遠くかなたで行われているかのようで。