議論をする能力の低下という指摘

niginigi32014-07-08

今日は朝から小学校のトイレ掃除に行き、そのあと遅れて都市経済常任委員会が任意で開催した勉強会に傍聴参加しました。テーマは観光振興。わたしは質疑応答の部分だけしか聞けませんでしたが、当局と議会の双方に刺激となったかどうか。常任委員が正副委員長とその他2名の4名、委員外として傍聴議員が4名。2時間の「投資」がそれなりの「成果」を生んでくれることに期待をしたい。成果、といっても形だけのものを言うのではないのです。もっと深いものなのです。

さて。

今日、朝日新聞の、あれはオピニオンのページ、というのでしょうか、を読んで、ぎくっとしたんです。
不覚にも、橋本治という作家を存じ上げないのですが、その寄稿で、日本人は「議論をする能力」や「議論として成り立っているかどうかを判断する力」を失ってしまった、と厳しく指摘していました。

その例として以下のようにあげています。これがわかりやすかったので紹介します。

(以下、引用) 集団的自衛権の行使」を説明する首相の記者会見を受けて、5月の参議院外交防衛委員会で、「他国で紛争が起こった時、その地域の日本人がアメリカ軍の艦船で脱出する場合」という例に対して、民主党の議員は「他国で実際に起こった紛争の例」をいくつか挙げた上で、「安倍首相が取り上げた例はどれほどリアリティーがあるのか分からない」という趣旨の発言をしました。これに対して安倍首相が反論をするのなら、それは「私の持ち出した例は十分にリアリティーのあるものだ。なぜならば――」という形であってしかるべきですが、安倍首相は「様々な事態に対処するため」と前置きして、「最初から『こういう事態はない』と排除していく考え方は、『嫌なことは見たくない』というのと同じ」という答え方をしました。

 よく考えるとその答えは、「自分が持ち出したケースにはリアリティーがない」と安倍首相自身が認めているようなものです。にもかかわらず、すぐその後に「嫌なことは見たくないのはよくない」と筋違いの続け方をして、答弁は続いていきます。

 尋ねられたことに対して向き合わない。その代わりに近似した別の「自分の思うこと」だけを話して、議論は終了したことにしてしまう。なにかは話されたけれども、しかし疑問はそのままになっている。「なんかへんだな?」という思いが残るのは当たり前ですが、どうやら日本人は、そのこと自体を「おかしい」とは思わなくなっているらしい。少し前までなら、「答えになってないぞ!」というヤジが飛んだようにも思いますが、いつの間にか日本人は「答えになっているかどうか」を判断することを忘れてしまったようです。
(引用終わり)

つまり、政治的攻防、まあそれを一種のケンカ、マスコミなど聴衆がわんさといる中での、に勝つため、という状況になると、論理的整合性よりも、言い負かしたように見えるかどうか、もとても重要な要素となってしまう、という問題があるということです。論理性の未発達な小学生の言い合いのようです。バカっていったらお前がバカ(わからんではないが)。いつ言った?何月何日何時何分何秒?みたいなものでしょうか。



使わない能力は必ず錆びます。議会に長く籍を置くものとして、「答えになっていない」ものを数多く見過ごしてきた罪を相当自覚していますが、そのことについて深く反省をしなければならないのかもしれません。私もまた、ときに論理的整合性よりも、それにかわる様々な要素を配慮せざる得ない環境下の中で仕事をしていますが、橋本治氏の指摘の通り、その事態に歯止めをかけないこと、それも言論を最も重視する議場においてそのことに無頓着になるということは、たしかに由々しきことと言えるでしょう。

文藝春秋7月号の特集、「いま日本人に必要な『教養』とは何か」のなかで、鹿島茂氏が中世のヨーロッパの大学で七つのことを学べと言われた、それは文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽だと、しかし明治時代に日本に取り入れる際に修辞学は取り入れ漏らした、と述べています。さらに「重要なのは修辞学では自分の意見を説得的だと主張するためには必ず最低二つは例を示さないといけない規則がある」として、裏付けとなる例示を引く必要性を説いています。そして、そのためには教養が必要なのだ、と。

論理性を求めるためには教養は必要であり、それは最近はやりの反知性的動向、ヤンキー化といわれるものにたいする、ではどうすべきかを考えるうえでとても重要な指摘と言えるのではないだろうか。