世間とは

私の場合、健康上または経済、財政上の理由から、ノミニケーションの機会はかなり限定的に制限されます。たぶん、ゆえに私にとって、この日記は、日々の記録とともに一種のノミニケーションにかわる、意見交換ツールとなっていると思われます。しゃべってスッキリ、なんてことはよくあることで、それに近い憂さ晴らし、のような。


上司への不満、などの要素を持たない身でありますが、似たような話と言えなくもない、やはり直接言ってもせんなきこと、を時折語りたくなるもの。マスコミについて、とか。

だいたい、報道なんて、中立を言いながらどこが中立なんだ、というもので(教育も同様)、中立を正しく定義してみろと申し上げたい。よってたかって攻撃する土壌を作り上げている効果、役割、そのあたり自己を正確に認識しているのか、問い直すべきではないでしょうか。小保方氏にまつわる報道に触れ、マスコミ、メディアのその権力的姿勢にうんざりさせられます。持ち上げたときにすでに感じていたことではありますが、リケジョって何? 割烹着がどうした? で、いま彼らは論文「不正」を見抜けなかったと「反省」を口にしながら、同じように、自己検証はされないまま、世間に追随するのみなのです。


みのもんた、猪瀬、佐村河内、みんなマスコミ業界を食わせる、食いぶちの役には立ったでしょう。正義や中立をタテマエにして、まるで射幸心を煽るギャンブルのように、大衆を巻き込み、社会を低俗化させていくわけです。やってられるかよ、とここらでお銚子のおかわり一つ。


ブログ、は利害の上で緊張関係にあるものにほど、読まれる傾向にあります。敵対的、とまではいかないまでも、ライバル関係、競争対象など。幸い、中立である必要もなく、ブログが食いぶちでもないため、主張を鮮明に出せる面があります。全く配慮がいらないかと言えばそんなはずはなく、万人の目に触れる可能性、危険性はある以上、最低限の配慮はしないわけにはいきません。


だからといって、当たり障りないことしか書けないようでは、社会になんら貢献できない。それは無意味です。世の中リスキーなのですから、リスクを恐れすぎてはいけない、まあこれも生き方の一つ、でしかないのでしょうけれど、そう思って書いています。


以上、お開き。