寒い夜

 今夜は冷え込んでます。ようやく左手第二指の小さなギプスが今日とれたばかり、ほとんどまだ曲がらないままです。無理に曲げてはならないと、言われており、またまだ指先の感覚が弱くしびれているようなので、タイピングがままなりません。

 このところ、父親の介護や治療に関する問題に追われているので、どうしてもそれとの関連で物事を考えてしまいます。悪いことではありませんが。で、人口問題を関連付けて考えたのでした。
 
 およそこのところ、長寿国と言われている日本でありながら、どのように老いを迎えるか、尊い人生の終焉とはどのようなものか、という点についてはまだまだだなあという感想を持たざるをえませんでした。ランキングのための長寿、とまでは言いすぎでしょうが、長寿がありがたいものだという国民こぞって共通認識となっているとはとても思えません。なぜでしょうか。

 いつからそうなってきたかについて長話をするつもりはありませんが、新自由主義の台頭と密接な関連がありそうだと私は思っています。人は生きていることで必ず何らかの消費を行うので、つまり経済活動の一端を担うので、それ自体は社会に「貢献」もしています。しかし、科学技術の発展で、生命の誕生を人為的に行うことも視野に入りつつあるという時代になると、動物としての生命維持の価値は低下してしまうかもしれません。高齢者の経済的な「貢献」と若者のそれとでは量的に比較にはなりませんから、そもそも相対的には価値はすでに低いうえに、です。

 生きることの尊さが、軽んじられるようでは新しい生命を宿そうという本能も低下しかねないのではないか。人口がどんなに増加しても、本来はそれを支えることができるために科学の発展などはあるのだろうと私は信じていまして、日本のような少子高齢化は、現象面では否定的には考えていませんが、社会経済体制としてはどこかいびつなようにどうしても思えてしまうのです。

 国境を越えて蓄積される莫大な金融資産。膨らみ続けるマネーの存在は世界中にそのいびつさをばらまいているように見えます。

 先進国における少子高齢化問題と、世界的な飢餓や貧困の問題と、基本は同じ構造の中で考えられるべきだということを私は言っているにすぎないのです。どの国も、新たな社会経済体制を模索しつつも典型的な見本を示せていない現代は、危うい均衡の上にかろうじて成立しているだけに見えて、いくら安心だの安全だのと言ったところで、根本的な問題が解消されていないのになんと能天気なことよと言いたいのです。

 さしあたり、現実問題の数々に対応する仕事をしなければなりません。問題意識は問題意識として抱えつつ、今年も前に一歩、歩みを進めていきたいと思っています。