泉田知事

柏崎原発の再稼動を巡り、誠心誠意頑張っている新潟県の泉田知事、東京電力と歩み寄る姿勢をみせたと報じられました。彼の姿勢は一貫性があり、きわめて冷静かつ理論的で、けっして感情的な対応ではありません。要するに今後とも、具体的な解決策がなければ最終的にはゴーサインは出せないと東電側にバトンを渡したにすぎません。で、相変わらず東電は、経費面からのみ経営を遂行しているだけなので(汚染水問題しかり!)期待はできないのが事実。よくも日本の政治は原発事故後これだけの時間を費やしながら東電を維持させてきたものだと呆れてしまいます。なんで平気でいられるのか不思議でなりません。


さて今日は厚木市議会では決算審査の2日目、市民福祉常任委員会の所管の質疑、私は傍聴しました。介護や子育てなどの分野は目まぐるしく制度が変わりあるいは新しい動きがつねにあるため、決算審査はやりにくそうにみえます。どうしても今そして今後を問いたくなるからです。昨年度はいかがだったか、を現在と切り離して議論することほど形式的な議論はない。ただ議論の技術としては昨年度の課題を鮮明にしさえすればおのずから今や今後を問うているのに等しくはなります。聞く立場になると、そのあたりの「聞きやすさ」は気になります。


聞いたことにのみ答える、という議会の議論の不文律は、私には日本の政治の限界性を表現しているものとしか思えません。うまく議員の質問を利用して政策の優位性や将来構想その他をプレゼンテーションするかが議論を高めることになろうと思いますが、なるべく必要最小限に答弁は留めようという意識が当局には定着しているようです。


新聞各紙が日本語の慣用表現の誤用について報じていた今朝、美しい日本語を意識して話すということを文化として維持、向上させたいのであれば、議論の内容を高める工夫こそ意識化すべきでありましょう。インターネット録画中継は、自分の議論を反省する材料ですが、大いに赤面してつねに改善を試みるべし。


良い議論は良い人間関係を作るでしょう。信頼できる人間関係を築き上げること以外、私にとって必要な作業はなにもありません。