9月議会の一般質問が終わって

 1100分。22人全員が50分を目一杯使い切っての質問ではなかったので、もちろん実際はそれよりも短いですが、集中して一日7人ないし8人の質疑を聞くのは慣れていないとキツいでしょう。慣れるのがいいのかどうかは別ですが。

 自分の質問は時間が短く感じ、聞く一方の状態では長く感じる。そういうものでしょう。時間は極めて客観的な基準ですが、主観的なものでもあるといえる、それでよいのでしょう。

 地方自治体の経営には中長期的な視点が求められていることを誰もが感じている状態で、議員はさまざまな立場からそれぞれがときには難問を投げかけ、ときには提案により道を指し示す、という1100分。財政潤沢の折であれば、問答する双方にゆとりもあろうものを、と思う場面がありました。

 「終わりの始まり」。よく使われる修辞ですが、今回の議会数日間で率直に感じたフレーズでした。個人的には初日、専決処分議案の段階で、打つ手がない危機感に苛まれ、一般質問を経てもなお打開策を見いだせない、沈鬱な気持ちに陥っていましたが、決算審査の準備(質疑通告50問)をしているうちに、若干ながらまだ徳俵でかろうじて残った残った、さあ土俵際、もう一度土俵中央に寄り戻せるか、というところにまではなりました。

 しょせん28分の1、ですが、たかが、されど、です。数々の負けは、必ず将来の勝ちへの糧となる、これは真理です。政治を語り、実践する以上、つねに真剣勝負は当然で、斬り捨てられるにせよ敵ながらあっぱれと思われなければプライドは保たれません。


勝負の世界に生きる者であればおそらく誰しも相手があってこそその勝負が成立していることに敬意を表し、戦いが相互の努力で高みに至ることに喜びを感じるでしょう。議場が成立する最低限の条件も、私はその精神に照らしてつねに検証すべきと考えています。


 答弁を聞いていて数回、がっかりさせられたり、あまりに「お願い」が多い質問も、本会議で取り上げなければ「お願い」できないことなのかと思うこともしばし。このあたりはしかし、ルールの問題ではないので「してはならない」とまでは言えないわけで、これもまた社会の反映、議会を構成する人の意識になんらかの変化がなければ前進はしないのでしょう。