日本語で主語がはっきりしないこと

niginigi32013-04-26

 3・11からその後、とりわけ原発事故についての無責任を思うに、その責任を問わないまま2年以上も過ぎていることに、どうしても納得がいかない毎日を送っています。とくのそのことについてのみを研究しているわけではなく、そのことを生業にしているのでもないため、懸賞はもちろん不十分であることを前提にしていただきたいですが、日本語では往々にして主語が曖昧な文章が多いことと関連があるのではないかという仮定をたててみたわけです。

 入院中に、村上春樹の小説「象の消滅」とその英語訳“The Elephant Vanishes”を相互に比較して検証するというラジオ講座を(私は)聞いていました。そこで、当然ながら英語ではしゅごがない文章は成立しないため、主語が明確でない文章には妥当、適当な主語を当てはめて文法上誤りのない文章にしていたのでした。イタリア語では、日本語同様、主語の省略が可能ですが、通常の言語では稀なのではないかと(私は)思います。

 日本における無責任性について、主語を曖昧にする、言語が与える影響は皆無と言えるでしょうか。むろん、日本における無責任、ということについて共有できるかどうかがまずはあるわけですが。

 画像は、昨日配布された、小学校のプールについて、厚木市教育委員会放射能検査を行ったが不検出、しかし「数値的に問題はないものの、放射線量に対する不安感を持つ方もありますので、児童・生徒が清掃前プール水や堆積物に触れることがないよう、その後に床面や壁面を磨く作業に児童・生徒が参加することを可といたしました」と伝えたものです。

 全校検査でないことももちろん不満ですし、堆積物についてはそのものの検査ではなく空間線量の測定となっていることはどうにも納得できませんですが、なにより「放射線量に対する不安感を持つ方」という言い方が私にはとても差別的表現に思えたなりません。なによりこれは、教育委員会はまったくもって不安を感じていないことを意味した表現になっていることです。

 全否定はしません。当然、教育委員会という組織は自由な組織ではありませんので、限界との戦い。私は合格点をあげられませんが、平均点をめざしてがんばってもらうためにその努力を評価はしたい気持ちもないわけではないのです。

 なにもしない自治体よりはそれは評価をすべきでしょうから。


 言いたいことは山ほどありますが、今日は、核兵器を使用しないとする国際的な共同声明に日本が賛同をしなかったことに触れないわけにはいきません。

 日本人として、平和を希求する政治を目指すものとして、こうした(当然賛同すべき)声明に賛同できなかった先進国という汚点を残したことに私は他人事のように現政府を批判するだけではいられないのです。


 つらくても語るべきを語り、書き残すべきを残し、責任を取ろうとし続けること、逃げないこと、それのみが私が愛してやまない日本語の、主語がなくても国家としての無責任を助長しているわけではない、ということを示す手段だと言えないでしょうか。