情報の集め方

niginigi32012-04-18

 情報収集について言えば、インターネットの力は今あらためて大きいということを感じます。とくに、政府の情報、テレビや新聞などの大手マスコミに対する懐疑の念を持つ人々からすれば、インターネットの存在はもはやそれなしには考えられないというものになったでしょう。その情報量の多さと多様さ、専門性、これは既存メディアは全くかないません。発信源が出す情報は中間で制限されず、その情報のやり取りにコストがほとんどかからないため、受け止める側に負担感がありません。いらない情報は掃いて捨てるほどあるために気にならない。スポンサーの意向はないし、デスクの介入もないし、コメンテーターの意図的な誘導も存在しません。

そしてなにより瞬時。同時。瞬時に同時に、共有できる。この早さは武器だ。
 
 情報の不確かさや匿名から来る無責任な言い放題の傾向は、インターネットのプラス面を維持する以上はリスクでしょうが、利用者の意識向上でかつてよりは格段に「スルー」されるようになっているように私には思えます。
 
 もともとEメールなどはビジネスのやり取りのために有効なもの、人間関係を深めるなどには適さないようにできていると思います。ですからどうしても対面で対話するよりも、電波に乗せた文字はとげとげしくなりがちなのは、これもまた周知のことです。またその対策も絵文字、顔文字などが出ることであらたな文化を形成しているようにも見えます。以前、私などは、情報収集で利用しながらもなかなかその激しさについていくことが生理的にあわないと思ったこともありましたが、最近はずいぶんなれたものです。wwwってなんだ?(ryって? orzって?なんていちいち教えていただいてましたが。いまでも、いい歳して○○なう、なんて書けないし、と思っていますけれど。

 
 「厚労省が国民を危険にさらす−放射能汚染を広げた罪と責任」という書籍を紹介したいと思います。医師で厚生労働医系技官の木村盛世氏の著、ダイヤモンド社刊。
 一読の価値ありと思うのは、意見が異なることも多いかもしれないが、こうした時代には異なる意見をきちんと聞き受け止め、議論をすることが大切だと思うから。互いに排除しあわず、批判と相互批判の訓練を。
 著者は痛烈に言う、「放射線被害だけではなく、過去の失敗を顧みない典型のインフルエンザ対策、それ以外にも水俣病、薬害肝炎、エイズなど、厚労省が繰り返す科学的根拠に基づかない対策のもとにあるのは『公衆衛生という概念の欠如』ということができます」と。
 公衆衛生という概念が存在しないという、「厚生」行政とは何でしょうか。信じがたい話がこの書にはしっかり書かれています。
 最終章の中には「地産地消へのしがらみを捨てよ」として、以下のように展開されています、若干紹介。
 
 「がんばろう福島」に代表される、東北を元気づける言葉が街のあちこちで見受けられます。こうした取り組みはとても素晴らしいと思います。ところが、元気づけるほかに、原発の被害にあった土地の農業製品に対して「安心安全」という理由で積極的に消費を勧めています。これは明らかにおかしいと思います。
 今回の原発事故で、距離に応じて、通常の放射線量より明らかに高い線量が降り注ぎました。また、多くは海に流れました。そうなれば、農産物にも放射線の被害があると考えるのは至極当然なことです。
 実際、海外の国々は、事故が起こってからすぐ、日本の農産物輸入を制限しましたし、多少緩和されてはいても、現在でもその制限は続いています。
 日本では、野菜などの農作物のサンプリングをして、それで問題なければ出荷というやり方をしていますが、「放射線が1ヶ月以上降り注いだ」という事実に鑑みれば、まず流通を止め、原発に近い地域の農家に対しては補償するということをすべきだったのです。
 

 いかがでしょうか。政府の対策(のなさ)を見事に批判しているといえます。
 著者は、「そこで必要なのはガイガーカウンターではなく、早期の流通停止なのです」と言うのです。そして海外食品の流通をも活発にすべきとも書きました。

 行政に携わる側にいるから当然でしょうが、冷徹に述べている部分も多いのですが、だからこそ、厳しい指摘の部分の信憑性も増そうというもの。
 ストロンチウムが軽視されている傾向についても多くが割かれています。参考知識を得るために、あるいは深めるために、「紙」の本で線を引き引き読むのも悪くはありません。

 第1章 放射線健康被害−わかっていること、いないこと
 第2章 誰のために安全基準はあるのか
 第3章 放射線規制値は絶対ではない
 第4章 放射線だけではない! 国の危機管理の甘さ
 第5章 「絶対安全」という宗教からの脱却に向けて