なぜ?

 You Tubeにある画像が流れた時、その画像が流れることが適さないものとした場合、であってもなんらの制限が加えることができない以上、流した者勝ちである。これでいいのか??との思いは決してぬぐえないものです。つまり、情報の公開がなじまないと判断されて合意されたものが今回のように一部インターネットを通じて流された、ここまではいたしかたない(不可抗力か)としても、解せないのはこの情報をマスコミは流し続けたという事実。どう冷静に考えても、これでは「よくぞ流して下さった!」とでもいうノリで、雪崩を打って垂れ流し放題だったではありませんか。国会では言うに事欠いて首相にこの画像を見ろと迫るものもいましたが、この情報を流すべき、あるいは流してもよいと判断したのであれば、それはいったいいつなのか。
流されるべきではないから制限したのであったならば、報道機関に映像そのものを流すことの自粛を求めるなどの措置をとったのか。
 情報管理といいながら、一度情報が流れたらすべては解禁になるという情報管理の理論とは何であるか。
 もとから公開すべきだったという個人的な見解を述べるのは勝手だが、公開することが合意されていない場合、その合意に従わないで公開することは構わないという立場をとるのか。
 機密かどうかについては機密とは言い切れない(ビデオの状態であったものをどう管理したのか?) と感じますが、政治的な判断で公開判断を保留することはありうるでしょう。機密かどうかがときの世論によって変わるものとは思いませんが、政府の一貫した責任回避の姿勢に対する反感が、世論を構成していることは疑いないように思われます。責任を問うのは、問われるのは事態の推移からすれば当然としても、気になるのはなし崩し的な公開になったことです。


 ことが、なし崩しに進んでいることに違和感を感じない人々が多いのだとすると、相当危険なのではないでしょうか。異論をさしはさむことがはばかれるような風潮があるとしたらなおのこと危険ではないでしょうか。

 
 インターネット上で、よく個人情報がさらされることがあります。少年犯罪などの、加害者の情報など、流されてはならないものが平気で流され、削除されたとしても一度出回った情報はコピーされ決して消えることがありません。ネットを通じたさまざまな危険なワナについては、おそらく統制をすることは不可能なのではないかと思われます。統制は不可能であるがゆえに、あとは人智で何とかしたいもの。

 市長選についてや県議選についてなどではなく、どうしても今日はこのことが言いたくて。いくら議会で熱心な議論をしたところで、世の中の風潮がこれでは、この流れでは、議会制民主主義なんて吹き飛んでしまうのではないかと思うからです。私のような、戦中派を親に持ち、戦後民主主義の中で生きてきて、いつしか親の世代となったものが若い世代に伝えなければならないことがあるはずだと、思う今日この頃ということです。