教育論議

 一般質問3日目が終わりました。今日はプレ市長選というか、来年の2月がどういう構図になるのかを考えざるを得ない時期に来ていることを感じさせられる質問もありました。いずれにしても、二期目を表明された市長は、課題を克服しようという意気込みを見せて牽引をしていかなければなりません。私の質問に対しての答弁は幾分譲ったとしても、今議会も市長が答えればよいところを副市長に答えさせる場面が気になりました。どう言ったらわかってもらえるのかと手を変え品を変え、質問してみても通じず、苦労していますが、大前提の姿勢の問題として、致命傷になる前に反省をしてもらいたいものです。副市長が優しすぎるんでしょうか?民主党S議員の今日の問題の局面だって、反論したい時点できちんと自分で反論しなければ話になりません。質問時間が終わってから、後から議長の許可を得て発言するのではもうインパクトが全然違う。第一、この反論ですら最初は副市長にさせようとしていました。『その場で、自分で』をぜひ実行していただきたい!

 冷静に思い返せば特に何の問題もないことでも、なんとなく政局に(ローカルではありますが)なっているような攻防には皆の集中が高まります。またしばらくすれば冷静に戻るのですが。宣戦布告に近いような質問にも思えましたが、それはそれだけ周囲に不満の目があることに気づいておかなければならないというだけのこと。

 件の質問の内容そのものについては触れませんが、ぜひネット録画が数日すれば見られるようになりますので確認をしていただければと思います。

 今回の一般質問では、教育をテーマにしたものがやはり多かったです。学校給食、など教育委員会の所管のテーマを入れるとかなりの議員がとりあげていました。今回に限らず、このところ子どものことなどを含めて、議員の共通の懸念がこのあたりに集中しているともいえます。

 私も知人友人と語ると子どもの話、教育の話になることが結構あります。先日のこと、友人の子どもさん、小学校6年生の女の子が塾に通っているのだそうですが、たくさん友達を勧誘して御褒美をもらっているとかの話を聞きました。最近では大学でも教えるプロとして塾の講師の力を借りなければならないという話も聞きましたが、教育を点数を取る技術論として考える危険性を私は感じています。
 小学校低学年でも、パソコンを使って問題を解かせると解けるよ、という塾もあるという。しかし、将来、いくら勉強ができても人間関係に行き詰ったりするほうのことが問題にならないのだろうか。私はそちらのほうを、現代社会としては問題だということに大人がきちんと気付かなければならないと思うのです。

 資料で高校が前期、後期で選抜する際の選考基準の内容を受け取りました。委員会活動で委員長をやると○点、生徒会長が○点、関東大会に出場だと○点、などとすべて受験に有利不利で判断されるようなシステム。親の中ではこういうことに詳しい人がいっぱいいるといいます。小学校の内から、高校受験を考えての塾選びが始まります。塾では受験に有利なように英検をやらせたり、漢字検定にとりくませたり。学校では、すくなくとも公立ではそんなオプションは位置づいていません。

 全国一律でテストをやることも、一体全体何のためなのかをきちんと国民で理解しなければならないはずです。何のための比較検討なのか。子どもの成長にどう寄与するのか。まあ、教育というテーマでは国民が合意することはおそらく難しいとは思いますが。

 先程の6年生は、ちょっとレベルの高い塾に通い始めたそうです。そこではもう等差数列を学んでいるようです。学ぶことの楽しさを知りたい子どもにはそういう場も必要でしょう。が、公立学校全体にそのレベルを求める必要はないわけです。ただし、教える側にはそういう話ができて、知的好奇心を刺激するということは私は必要な指導だとは思います。新しいことを知るということ、学ぶということは楽しいことで、本能的な欲求であるはずです。そこは導き手の責任の範疇でしょう。導く側に導く意欲があり、その自覚があり、その能力があることが必須なのです。
 それは、指導者、先生といわれるものにはなくてはならない要素であると私は思っています。自らが高まろうと努力しないものが、他人に何を教えることができるのか。

 問われているのは子どもではなくて、もちろん大人であり大人の社会です。