金融規制の行方

 先日、アメリカ上下両院が一本化した金融規制改革法案は、上院で5月に賛成多数で可決した金融規制法案よりは後退したと伝えられています。銀行の高リスク取引の制限の度合いを巡る攻防だったようですが、完全な規制にまで到達するにはまだ壁が厚いのでしょうか。報道によれば、たとえばヘッジファンドや買収ファンドへの投資を完全に禁止はせずに銀行の自己資本の3%を上限に認めることにした、という妥協だといいます。金融機関側は、これらの攻防に対して数億ドルを使って「介入」したともいわれているようです。
 イギリス、ドイツ、フランスの銀行税の導入など、金融危機から財政危機へと世界全体を覆う経済のグローバルな立て直しは注目すべきですし、先進国の財政赤字半減目標は掲げたことに意味がある、当面の効果を重視したものとして私は受け止めています。

 日本の経済対策も、日本だけでどうするかということから脱却しないと消費税と法人税と、新成長戦略と、という狭い視野の論議に終始するのではないか。というのは、ベトナムで日本が売り込んだ新幹線を、財政を考慮して要らないと国会が判断した(次期国会に先送り)、というニュースを見たことで、よりその思いを強くしたのです。「売れるものは何でも売る」というのが方針なのか、インドに原発を、という戦略もあるようで、そのあたりの感覚が世界的な経済危機の深さについての認識の甘さがありはしないかということです。
 日本国内での事業展開や投資のうまみがないと見るや銀行はアジア各国でインフラ整備への資金提供などで動いているようです。ベトナムには新幹線よりもまずは道路などのインフラ整備だと、いうのを友人に聞いたことがありますが、銀行の世界展開も利益重視の無秩序展開ではいかがなものか。日本の場合官民問わず、奢りがあるような気がするのです。

 世界に誇れると騒いだ小惑星探査機「はやぶさ」にしたってその価値をどれだけの人が共有できているのだか、とにかく一番になったことだけで喜んでいるのではないのかと心配しています。日本がそれだけお金を科学技術開発などに投じることができたのは、その背景にどれだけの支え、あるいは犠牲があったのかにも思いを馳せておくべきではないのでしょうか。そのことなしで有頂天になっているようでは、科学の進展をきちんと国民、あるいは世界のために還元する発想を失うことになるでしょう。

 市議会は7月1日、9日と議会の在り方検討会が予定されています。