誇り

 初夏を思わせる日があるかと思うと、まだ冬のコートが手放せない日もあって体調管理には気を使う日々が続きます。新しい年度が始まってそろそろ新しい環境に慣れてきた頃でしょうか、われわれも日一日と新陳代謝を繰り返し成長をしていますが(いるはずですが)気候の変化同様、すっきりと移り変わりを感じさせてはくれません。

 さて、先日この場で触れました「あつぎ元気フォーラム」の「県政報告」「市政報告」については担当から、内容を詰めてきてこのほど題名が確定して記載を改めて広報する、という考えを伺いました。「市政報告」、ではあまりに政治活動っぽいですからね。「次期への表明はありやナシや」なんてニュアンスも含まれがちでしょうし。公費を使っての企画ですから、市長の成果を強調するのも結構ですがそれだけではなく課題についても認識が共有できる企画にしてもらいたいものです。

 ところで。
 今日の日経朝刊2面のべた記事。「米、日本に不信」小沢氏 
 という見出し、で記事は以下のようなものでした。

 民主党小沢一郎幹事長が22日夜、鹿児島市内で連合鹿児島幹部らと懇談し、日米関係について「相手側は日本に不信感を持っている。これではいかん」との考えを示したと出席者の一人が明らかにした。

 という簡単なもの。これが全国紙の政治面の記事になるんですねえ。このところマスコミの報道の在り方にはいろいろ疑問を感じてはいますが、上記のようなものになると事実がどうかを追うことも難しいし、確認をとる手段すらはっきりしないまま既成事実にされてしまいます。出席者の一人、なんて特定しようもないでしょう? 最近のテレビだと、このような記事をもとに「記事ではこう伝えています!」などと大げさに取り上げてマスコミが事実を作り上げていってしまうようなところすらあります。

 いくつかの報道で伝えられていますが、新聞はどこも広告が激減していて経営が厳しい、と。おそらくはそうでしょう。先日A新聞をみてみましたが40面のうちなんと約3割にあたる13面が全面広告でした。雇用や待遇面の向上にすら向かない企業の実態(投資家への配慮と内部留保には向いてはいるが)からすると企業の広告料収入をあてにするマスコミ報道をとても鵜呑みにするわけにはいきません。「権力をチェックする」とコメンテーターやデスクが意気軒高であったとしても、です。

 そうした視点で見ている私にとって、文藝春秋2月号に掲載された塩野七生さんのエッセイは、興味深いものでした。「仕分け」されちゃった私、という題で、出版界に景気の影響がどう及んでいるかという話。
日本の出版界は96年をピークに低落して一昨年は2兆円を下回った、といいます。詳しくはぜひ本文を読んでもらいたいですが、書籍は広告が掲載されていないから関係ないと思っていたら出版社の出す雑誌の赤字のしわ寄せで「初版の部数の大幅削減」が著者を襲っているという。
 塩野さんは「初版で得る印税はこの種の人々にとって、唯一としてもよい確定財源である。作家を専業にしている者が、予測の立たない重版による印税までもあてにして創作プランを立てるとしたら、その人はもうプロの作家ではない」として、こうした傾向に対する懸念の言葉が続きます。そして、だからといって出版される本は減るのではなく増えるだろうとしてこのように言うのです。「ただし、短期間にモトが取れるものだけが」と。

 「読む愉しみや知的満足を与えてくれる本よりも、読めば不安を解消してくれると思える本一色に」染まっていってしまうだろう、と書いて行間に警鐘を感じさせてくれています。そして、塩野さんはそれでもなお同じやり方で作品を書き続けるだろう、としてこう言うのです。
 「なぜならば、ここに至ってはもはや誇りの問題であるからだ。」


 本来は、よい内容のものに、きちんとスポンサーがつくべきでしょう。ところが現実はそうでもありません。経営危機の日航も一時株価が上がりましたし、中国を敵視している人も投資には余念がなかったりします。投資のうまみが優先される社会であるという点では、なんらリーマンショック以前と変わったわけではなく、相も変わらずリスクを取る金融商品にカネが回ることを景気回復と呼ぶのかといいたくなる状態は続いているのです。
 危機、と言うならば日米同盟の危機ではなく、新しい世界像、新しい理念を構築することへの挑戦意欲を失わせるすべての後退的要素の存在にこそ危機があると私には思えてなりません。