臓器移植法

 最近急速に、こどもの移植を容認する動きが目立ってきているようですが、海外で移植することができなくなってきたから国内で認めるというのはあまりに原則がなさすぎます。本人の同意確認が最も重要と思われる移植について、いったい何歳になったら可能かという議論は、客観的な判断基準がないために、安易な決定に結びつきがちで大変憂慮しています。本人の意思および家族の同意が前提という今の基準ですら、問題が多いと思われるのに、そちらの解決をすることもなくつきすすむことがないように注意すべきでしょう。
 移植は高額を必要とする高度医療であることは論をまたないと思いますが、「人の死を待ち望む」性格のある移植問題は人間の生死観にかかわる深いテーマであって、短期間で結論を出すことには問題が多すぎます。まして、こどもの移植を待ち望む親の感情を考えれば、移植手術をできる人とできない人の差に合理性を感じられるであろうか、成功するか否かもそうですが、臓器を提供する人の側の(感情の)問題も含め、流されてはいけない問題なのです。
 いま、医療はすでに「貧乏人は診てもらえないのか」という声が聞かれるほど、国民皆保険制度が揺らいできています。医療現場を支える人々の負担は増す一方ですし、このままでは崩壊する医療に歯止めはかかりません。移植医療を推進するということは、それを進める医師の負担(精神的にも)を想像以上に増大させるものです。脳死判定の問題があるように、救命医療がおろそかにされ、病人やけが人をみるとイコール臓器提供者に見えるような医療にしてはならないのです。
 
 私たちの住むいわゆる先進国では、人は簡単に死なないものになっています。だから、死を受け入れることと生命を何よりも大切にすることは同じ話なのですが、生命を軽んじて死を受け入れられない、そんな傾向にあるように思います。医療の進歩は人間社会を前進させるので否定しません。しかし、一方で失うもの、犠牲もあるということも考える必要があるはずです。議論は否定しませんが、人権を含めた問題として十分な議論をすることが必要で、今国会で決めてしまう内容では決してないと私は強く感じています。