自治基本条例

 市民会議で熱心な議論が続いていると聞いていますが、市民が「自治基本条例」制定に向け準備を進めていることは意義のあることであることには間違いありません。憲法の草案を創るような話ですから、具体的な詰めも最後まで市民会議主体で行ってほしいと思います。総合計画のときのように、市民からの提言を受けても結局は行政が主導でばたばたと成立させるようなことは避けてほしいのです。
 おそらくは理念条例でしょうから、実際の自治の力をどう育てるのか、条例の意味をいかに実際に反映させるのかはその後の行政のあり方によるものでしょう。条例を創ればすぐに自治が向上するというわけではないのですから。
 税金の使い方を含め、議会では結構細かい議論もあります。最近は聞くところによると、インターネット中継が好評で、「意外と」議会もまじめにやっていると思われたようだとも聞きました。インターネットを利用しない市民のため、あるいは行政とのやり取りなど事態に垣根を感じるような市民のためには別の手段も必要でしょう。そのあたりは工夫が必要と思います。
 関心がある人のためにという意味では、市政情報コーナーで議会中継を流してほしいもの。いまも市役所1階ロビーで放映はされているものの、ほかの番組を流す画面と重なっているという事情で音声が流れていません。音声なしで議会風景を流していることに何の意味があるのでしょう? 議会は言葉のやり取りこそ仕事の中身なのに、言葉を伝えないなら意味はありません。
 委員会の傍聴の促進も課題です。本会議よりも細部にわたり、時間制限なく議論できる委員会審議は傍聴席が少ないことが問題。こちらは構造上の問題ですから、毎回傍聴者が増えるような状況があれば改造などもありうるかもしれません。生活に結びつく陳情なども傍聴者がもっといてほしいと思うこともしばしばあります。そうした状況をつくるためにも議会の改善はすべきとは思います。
 議会の改善はまた、基本条例によって創られるのかというと、そうとも言えません。もともと形式的になりがちで、表と裏がある議会、政治的な力関係に左右される要素も多いのですから、条例自体が「調整的役割」の「玉虫色」のものにならざるをえません。むしろ、条例ができたことで議会がいかにも仕事をしているかのように見せかける役割を持ってしまう弊害もあります。いちいち明文化しなければならないとは私は考えていませんで、規則や罰則など細かくすればいいという議論にはどうもにわかに賛成しかねます。人間自身が持っているそもそもの自由でおおらかな部分を削り取ることのデメリットを思うからです。明文化されると人間は、書いてあることはやるけれど書いてないことはやらなくてよい、という癖がつくのです。人間の感性に基づく、当たり前の言動を奪うことになりかねません。
 議会基本条例を創りたいというならば、まず、基本条例がなくてもとても活発に、活動している他の自治体議会のレベルを勉強してから作るべきだというのが私の立場です。