白書について

今日は中学校の文化発表会に、PTAの合唱(まあ余興みたいなものだろう)参加のための練習に行ってきました。男の会長が、寂しいからと言って私を誘ったので、おつきあいなのですが、学校の先生方も真剣だし教える先生は先生だけあって原則的でそれはそれで面白いものです。年をとっても新たなことに挑戦するのは楽しいものですね。生涯学習とはよく言ったもので、若いころには学ぶことの楽しさなどに気付かず過ごしたとしても、人生を経るにつれて何かを深めてみたいと思うことはあるでしょう。そうしたときに、その気持ちにこたえてあげられる機会の保証が大切です。

「S、やK、の発声の時には子音が先に出るように歌ってみてください」とか言われて。面白いですねえ。専門の人に教わる機会なんてそうありませんから。タダで。

ただの一曲のために。それでも親として、先生として、まじめにかかわるのです。そういう親ばかりではないでしょうが、もうじき親として学校に行くこともなくなるので私自身のために歌います。

先日、過労死白書が初めて作成されたというニュースを聞いて、さっそく市役所では白書を入手しているかを調べてもらいました。いまはあれだけ分厚い白書を入手することはやはりないようで、それぞれ関与がある担当の部署が必要に応じてたぶんダウンロードして情報源としているのでしょう。

そのあたりの国の動向を正しく早く察知しておくことは地方行政にとっては大切だといえるでしょう。国も、膨大な事務を抱えて親切に地方行政に伝達をしてくれるとは思えませんから、独自にアンテナを張るしかなく、でも人間ですから受け手は見落とすこともあると思うのです。AIの技術も進んできているのですから双方向で、国と地方が綿密に情報発信、受信、を感知しあうことは最低限必要なのではないかとも思います。

制度の改正が盛んな福祉部門などはおそらく毎日チェックを欠かすことができないでしょうが、情報の共有や得られた情報をもとにさらに深めてみる作業などのために全体化するなどは部署ごとに取り組みが異なりそうです。

今の地方行政にあまり酷な要求はしたくありませんが、住民に最も身近な大切な仕事をしているという誇りの問題として、ぜひ前向きに考えて新たなシステムを目指してもらいたいと思います。

議員は、行政の得る情報のうちごくわずかな情報しか得られません。すでに私にとっては情報過多気味なのでそれでもけっこうなのですが、限られている情報の下で判断を下す仕事となるわけで、そうなるとやはり必要な情報は請求して判断材料を補いたくなるのは当然です。私も議会ごとにたくさんの資料を求めます。最近、ここ数年は以前に比べて行政の作成する資料の内容は格段に良くなって、不満を感じることは減りました。ただ深める作業に時間を割けなくなってきています。IT技術は向上しているにもかかわらず、深める奥行きに満足がいかなくなっているのです。

思考回路はさび付いてはいない(はずです)ので、まだ改善の余地はあるだろうと思いながらもそのことじたいについて考慮を深めることができないでいるという。あきらめずにがんばろう。