風化を嘆くことを嘆く

 震災及び原発事故から3年を経過して、忘れ去られようとしていることを嘆く、あるいはたしなめる論調を耳にしますが、そのときばかりその論調を正義のごとく振りかざすことほど偽善的なものはないと思ってしまいます。己を顧みよと。

 幸いにして、私どもの職業はつねに税金がどう使われているかなどを気にしなければならない商売であるがゆえに、政治問題は日常で、忘れる暇がありません。オリンピックに浮かれているのが信じられないと私は思うわけで、でも復興のためにとか何とか云いながらお祭り騒ぎの様相ではないか、よろしいんでしょうかこの日本、というふつふつとした思いを持つのです。

 右の論陣、というべきか論陣というほどのことはないのかもしれませんが某石原(元都知事閣下?)氏に対抗すべき人格的象徴がいまいち鮮明でない中、佐高氏は堅すぎる感じがするし、あくの強さでは田原総一朗氏が向こうを張れる感じはありますがジャーナリストの枠内であって政治的なリーダーには向きません。文学的表現で引き付ける力やパフォーマンス性、想像力に富んだ発想力、論理的説得力、これらを兼ね備えた「対抗軸」の不在は、日本にとってたいへんな損失だと私は思います。既成の野党には長らくその任に応えうる者が育成されてこなかったのは周知のことで、育てえなかったことは残念としか言いようがありません。

言い忘れましたが、風評というのは政府に都合よくつかわれる言葉で、人々の間に「敵は政府ではなく風評である」とインプットさせるマインドコントロールでしょう。福島産に限らず、風評を避けるためにはすべての食材の厳密な放射能測定と公表は、原発を推進してきた政府の(今後のエネルギー政策いかんにかかわらず)責任であって、これはどの政党が政権担当になろうが、やるべき共通の責任であろうと思います。風評被害で生産者が苦しんでいるのではなく、原発事故とその後の無責任な政策で生産者が苦しんでいて、だれも責任を取らずに逃げていることでなお生産者が苦しみ、風評のせいにしたくならざるを得ない局面に立ち至っているということを深刻に受け止めなければなりません。3年たってなお、だれも具体的な責任を問われない事故があったことを私は忘れなどできるはずがありません、一日だって一秒だって忘れるものか。


 厚木市議会は、常任委員会審査が続いています。詳細についてのやり取りは、それらが貴重な議論であることは間違いありませんが、ときに果たすべき役割との関係を考え空しくもなります。市政への注文、ということではいくらでも言えますが、言われなければやらないという体質をむしろ固定化しているかのようで、私にとってはかなり矛盾です。言わなければ改善もしないので、発言はせざるをえないわけですから。

 議論のレベルは向上していると言えるのか、検証の方法があればぜひ検証してみたいものです。