別の道

 9月23日付の神奈川新聞、「識者評論」の欄に横浜市立大学名誉教授である矢吹晋氏が日中国交正常化40周年に際して、両国は危機直視をと訴えての文章を寄せています。

 危うい外交を継続する野田首相らに危機の本質は分かるはずもないでしょうが、認識を深める意味で、この文章を検証してみることは価値のあることと思います。

 81年前に満州事変がはじまった9月18日、中国では100を超える都市で反日デモが行われ、瀋陽の日本総領事館の窓ガラスが割られた。国交正常化40周年は、相互不信の応酬の場と化している。
 周知の通り尖閣諸島の領有権問題は、1972年の田中角栄周恩来両首相の国交正常化会談で「棚上げ」された。78年8月の園田直外相と�殀小平副首相との平和条約交渉では「棚上げ、共同開発」とされた。
 今回の日本政府による買い上げは、この「黙契」と「共通認識」、政府間の「約束」をほごにした、と中国は怒る。
 尖閣はこれまで日本が実効支配してきたが、日本がほごにした以上は中国も拘束されない。今後は「軍事を含めたあらゆる行動(経済的犠牲を含む)を行う」と宣言し、一連の行動を始めた。
 

 と始まります。事実関係の確認で、おそらく異論はあるまいが、意外とこの部分の後半部、「日本がほごにした以上は中国も拘束されない」というあたり、日本人は無頓着であるか、日本人であるが故に日本寄りに身勝手な解釈をしていることに気づかされないでしょうか。

 中国側のいう「黙契・共通認識」を無視する動きは、自民党政権末期に始まるが、民主党政権の外交不在は事態をエスカレートさせた。
 小さな無人島の小さなトラブルが、いまや日中の経済・文化交流を全面的に脅かしている。
 これまで中国から教科書・靖国・歴史問題などしばしば「対日不信」が表明されてきた。その根底にあったのは「侵略戦争を反省しない日本」への不満だ。尖閣問題はいまやその集約点と化している。なぜか。
 日清戦争勝利の成果として得た台湾割譲は1985年5月だが、尖閣の日本による「無主地先占」宣言は同年1月のこと、わずか4か月前だ。この「法理」を根拠として日本は「国際法的に有効」とするが、この「法理」はいわば帝国主義時代のものだ。
 中国側からみると「台湾割譲の一部」にしか見えない。尖閣問題は中国侵略の「原点・象徴」と化しつつある。

 私もかねてより、この帝国主義時代の法理、という指摘、考え方のほうに共感をして生きてきました。まして、固有の領土論というのは日本語の定義からすると全くの間違いで、そこまでいくと強弁でしかありません。その意味で、不勉強をさらけ出す野田外交は恥さらしでしかありません。


 周首相はかつて「他人のふんどしで自分のメンツを立てるものだ」という俗語で外務省高官を面罵。中華民国(台湾)との「日華平和条約により、大陸における賠償請求権も解決した」とする日本側の主張に怒りを爆発させた。
 とはいえ、中国当局はすでに賠償放棄策を決意していたこともあり、また中ソ対決を控えて日中和解を急ぐ事情も重なり、やむなく国交正常化に向けた妥協を決断した。これらの不満が蓄積し今回の爆発に至る。

 思い出せば、ソ連の侵略が世界平和に大きな脅威を与えていたころ、中ソ国境付近も緊張の連続、日中関係の改善を急いだのは外交政策として両国の利害の一致をみたものであったでしょう。「棚上げ」を続けてきたのにはそれなりに歴史的な経過があるということをどれだけの日本国民(中国国民も)が理解しているでしょうか。


 賠償放棄など戦争責任に寛容な中国に対して、日本は大平正芳首相の発意で円借款を供与したが、その謝意表明は曖昧で、日本側を失望させた一幕もある。
 中国政治の民主化を求める若者たちが鎮圧された1989年6月の天安門事件の流血も多くの日本人に衝撃を与えた。
 21世紀以降の食品絡みの諸事件も日本社会に驚きと不安を与えた。少数民族への圧制や台湾武力解放を唱えるどう喝も、一連の軍拡とともに中国脅威論を勢いづかせた。いまや中国に親近感をもつ日本人は2割にすぎず、中国嫌いのムードは日本社会にまん延する。
 この種の相互のわだかまりを解く努力が求められているときに、事態は逆の方向に発展した。両国民の心に潜む「愛国主義という病巣」が、ポピュリズム政治に利用されて悪性膨張を遂げつつある。互いに隣国を敵視して「毅然たる態度」を示そうとしている。
 ここで対立の激化に急ブレーキをかけないと、偶発的衝突から大事に至る危険性をはらむ。両国民は日中関係の危機を直視すべきである。

 と、結ばれています。最後の結論、たしかにアジア各国の現状を見るに、対立の激化にはブレーキが必要であるとの認識は重要ですが、意外とマスコミがあおるほど各国国民全体がナショナリズムに引きずられているとは思えません。であるがゆえに、冷静に、それぞれ内政の懸案事項を、しっかりととりあげ、対処する方策を提示することのほうが急務であろうと私ならば強調するところです。

 内政問題の焦点をそらし、政権運営を安定させる目的か、権力闘争を有利に進めるためか、いずれにせよ、国民にとっては不幸な事態に誘導されていることこそ、歴史で繰り返されている愚行と知るべきでしょう。