「わが母の記」(井上靖)

niginigi32012-08-19

 「わが母の記」(井上靖)は1970年代に書かれたもので、まだ日本がこれほどまでに高齢化率が高くなることなど予想もできなかった頃の話です。認知症と接する家族の思い、そして認知症になった本人はどんなことを考えているのだろうかということが細かに書かれた、私にはなかなか良い作品でした。表紙のカバーを見ると、映画化されたようですが、最近でいえば「はやぶさ」以外は残念ながら鑑賞の機会を得ず、良い作品は劇場で鑑賞するのが本筋と思いつつも、いたしかたなく、のちに安価な媒体によって視聴できる機会を待つことにします。

 小説には、好き嫌いがあるのは当然で、私は「携帯電話」などが出てくるものは大概読みません(政治や医療に関連したものは例外ですが)。瞬時に連絡が取りあうことが可能な道具、というものが「小説」というゆるやかな時間の流れでほっとする文化となじまないような気がするだけなのですが。感性、の問題だけだと思います。


 現代の小説を読んで何を得るのか。人それぞれでしょうが、そしておそらく言わんとすることは決定的に違うのかもしれませんが、最近の芥川賞受賞作品に感動をしないといって審査員を降りた都知事のコメントには、私もなるほどと思うところもあります(政治的にはおよそ一致しないことが多い人ではありますが)。現代という時代を受け入れられないということに起因するのでしょうか。


 ところで、「わが母の記」のなかに、余談ですが、「沼津のインターチェンジのところと、高速道路の厚木付近とで、二回ドライブインで休んだ」という一文がありました。二回とも、「母」はアイスクリームを食べ、おいしいものね、と言った、そして東京に着くまでにこの「母」が自発的に発した言葉はこれだけだった、という話なのですが、厚木インターができてどのくらいの話だろうか、そんな具合に思考は脇道にそれていったのでした。そのころ、私の友人たちの話題の中に、海老名のサービスエリアで何を食べたとか、親がそこでパートで働いているとか、そういうものが出ていたことを思い出したりしました。

 「母」からすると、わけわからないことを言っているのは家族のほうだと思っているに違いない、そうした作者の、「母」の家族の思いや葛藤が描かれた、味わい深い作品でした。



■先日紹介した「大局観」(羽生善治氏)で、「将棋の世界は、リスクを取らなければ棋士の成長は止まってしまう。だから私は、新しい手を見つけたら、メジャータイトルを含む実際の対局で試すようにしている」「本番で試すリスクをおかさない限り、プロ棋士としての成長はない」と断言をしています。そして、「リスクを取らないことが最大のリスクだと私は思っている」というのですが、これは私は将棋だけの世界にあてはまるものではなく、リスク管理を問われる現代に生きる以上、傾注に値する考えだと私は思うのです。羽生氏は別の著書でも、「実績とは常にリセットするもの」と、実績に安住する姿勢を否定し、むしろ実績を捨て去る覚悟を求めています。


 私たちは常に、思想の新陳代謝を求められている、にもかかわらず、自ら脱皮をすることなく迫られて解体をさせられる、それでいいのであろうか、そうした問いかけ、またはそうしたことへの戒めではないでしょうか。


 今日のところの結語はこういうことでした。いよいよ9月議会という、決算を審査すべき議会が今週から動き出します。市民からの各種陳情も予想されます。この場での報告はあくまで主観も交えた「速報」的なものにすぎませんが、広報広聴活動の一端を担っていますのでご了解ください。