愚痴

「おさげしてもよろしいでしょうか」とお皿を下げられる場合、下げられながら「ごゆっくりどうぞー」と言われることがあります。

通常、皿を下げられたら急がされている、と思うのが人間の感覚としては正常ではないでしょうか。

お店が空いているときには、あまり言われない(言われることもあります)ですが、お昼どきには催促されてもしかたない、ですし、それこそが公共の福祉の考え方のベースだと言えるでしょう。みんな、お昼ご飯を食べにお店にきているのですから、食べ終わったら待っている人へ。つまり、ごゆっくりと言われる筋合いではない。

これが、TPO、で、時と場合による判断、でしょう。

子供が通学する時間帯だけでも、歩行者用信号を長めに。これは無理な要求でしょうか。社会は、みんな支え合い。朝の、ほんのひととき、子供たちの通学に配慮する技術は、すぐにでもできると思います。

日本は、遠く離れた小惑星イトカワから砂を持ち帰ることを可能にした技術があります。忘れちゃいました?


それからついでに言いますと、いじめられてる子供に「親(とかに)話しましょう」みたいな説教くさい文章を臆面もなく新聞に載せているのは、違和感が募ります。ついでに、と言うと、なんですが、腹が立つ話で言うと、今日は一言申し上げたい、ということで。

上から目線なんですよね、こういうものの言い方って。言いたくないことを言わせるって、なんだろう。純粋な子供は、社会が嘘を許容せず、罪を許さず、品行方正を求めていると思っています。言いたくないことがあったってかまわないとは思わずに、隠していることにさえ罪悪感を持つのでしょう。

一緒に風呂に入って、内緒話をしあってみたらわかる。風呂で打ち明けられない話は聞いても無駄だ。親はそのときに知る、子供には親には全くわからない世界が存在していることを。子供に、親の苦労がわからないのと同じに、親にだってわからないことはあるのだ。 それは子供の成長の過程。もちろん親も成長しています。親たち大人の、責任回避や自己弁護からなる言い訳の数々は、親が、社会が完璧であるかのような虚構を見せつけているに過ぎず。

ほんと、なにをエラソーに、です。

見せかけと形式にとらわれて、自由な生き方を奪ってきた大人社会。そんな大人社会に「身近な大人に相談しましょう」という方針が正しいと言う人は子供を守ることよりも秩序を守ることがお好きなのであろうと、私は思います。


人生、みんながビル・ゲイツになれるわけではありません。子供たちになぜ成功ばかりを求める? 窮屈な社会を与え続けて親としての責務だと?

綺麗ごとばかりの世の中に、異論をぶちまけてみましょう。子供に、戦え、がんばれ、と言う前に、言葉じゃなく、生き方として、戦いの姿を見せてみよう。それで敗北してもなんぼのもんじゃ、世の中負けることがいっぱいあるぞ、って。