東電と国の責任をまずはっきりさせよう

 ずっとそのことを考えています。放射能汚染対策があり、がれき処理があり、再稼働への対応、再生エネルギーの評価。利害の違いも含めいろいろと意見が分かれていて、しかしそのことは前に進むために必要なことではありますので、否定的にとらえていませんが、原発事故の直接的責任問題が解決していないことについては、煙に巻かれていくことを懸念しています。
 主要な会議の議事録すら存在しないという信じがたい事態、そんな状態のままで次の段階に進むとは思えません。いまだに事実すらわからない、そういうことがいっぱいあります。事実を知るために、たとえば国会に福島第一原発作業員を呼んで報告を受けるとか、死亡した作業員の主治医から意見聴取をするとか、なぜしない?またそういうことを報じない、報じようとしない日本という国家の閉鎖性を嘆かわしく思うわけです。 
 次の日本をどうつくるかはおおいに議論しながら、対立する意見を戦わせて有効策をひねり出すしかありませんが、原発事故による被害に対する賠償など責任を全うさせることについては、一刻も早く(もはや遅過ぎますが)一致させなければならないはずです。被害を過小評価することは東電を助けることにしかならず、その助けというのは助けてもプラスになるという意味での助とはならず、反省も教訓も、冷静な将来に向けた蓄積も得られないことでしょう。
 被災地支援で「食べることで支援する」も、心情としては、人間として理解できなくもないけれど、東北の放射能汚染が現実のものとしてある以上、食べて助けることが徳であるかのようにいうのは誤解で、食べて助かるのは現地の人というよりも、まずは東電を助けているということに気づかなければなりません。東北地方、被災地を助けるということになるのは国や東電の無責任を放置しないこと以外に何があるというのでしょうか。

 食べて助けたいという心情を、全く理解できないわけではないので、そういう人々と対立したくはありません。がれき処理も同様です。むしろ、その優しい、善意を持つ人々の思いが責任を曖昧にする国家に利用されるままにしておけない。ですから責任追及を抽象論ではなく、具体的な補償、賠償の問題を問い質すことこそ急務であると思います。
 その金額の膨大であることを共有し、今回の事故を再認識する過程は、真剣な放射能汚染対策その他、次に向けた議論に活きると私は思います。


■ 市内小学校ではちらほらインフルエンザが流行ってきているようです。受験の季節でもあります。気をつけましょう。


 「早春賦」


春は名のみの風の寒さや
谷の鶯歌は思えど
時にあらずと声も立てず
時にあらずと声も立てず


氷解け去り葦は角ぐむ
さては時ぞと思うあやにく
今日も昨日も雪の空
今日も昨日も雪の空


春と聞かねば知らでありしを
聞けば急かるる胸の思いを
いかにせよとのこの頃か
いかにせよとのこの頃か



 この季節にはこの歌です。立春を過ぎてなお列島を襲う豪雪の対策に協力要請も緊急です。