障碍について

 昨年12月議会最終日の反対討論で、「厚木市部設置条例」の一部改正条例に触れました。その趣旨は、総合計画の第一期実施計画の中間総括の提示も、それに基づく第二期実施計画の見通しについても触れられていない段階で、なぜそのような機構が必要になるのかを判断するわけにはいかない、というものでした。その中で、評価する点として、早めに機構改革の改正を提案された点(本来は予算提案と同時が望ましいと私は考えていますが)、そして、「障害福祉課」が「障がい福祉課」になった点を指摘しました。
 標記の変更については、私は過渡期だと考えています。このところの議論で明らかなように、「障害」は「障碍」が望ましいとする説が検証中です。「碍」の文字は「礙」の俗字、漢音では(ガイ)、呉音では(ゲ)、と漢和辞典などでは書かれています。詳しく調べられている方々もいらっしゃいますので、ここでは融通無礙(碍)などの用例で知ることができるこの漢字がかつてどの程度、現在の障害(者)を意味する漢字として使用されていたかが検証されつつあることを前進だと捉えるべきだということのみ、申し上げておきます。
 ついでに言うと、単に言葉の問題からだけではなく、その時代の背景にある人権についての感覚にも問題を検証していく必要をも感じています。なお、該当する漢字が当用漢字であるか常用漢字であるか、ないかなどは問題ではなく、漢字とひらがなを混ぜて表記するのはいかがなものか、きちんと漢字で障碍、と書くべきではないかという意見もいただいていることも紹介しておきます。言葉を変えても意識が変わることの保証にはなりませんが、言葉の使い方の議論そのものからが共有されるならば、意識を問い直す機会にはなるはずです。ひとまずひらがなを使用したというだけに止めてはその価値は半減してしまいかねません。
  
 こだわりをもつことで人は成長します。こうした議論は推奨です。