2年ぶり

 今日はおよそ2年ぶり(だと思う)くらいに娘とツーショットで遊びに出かけました。連れ合いと、というのもそうそう時間が取れないくらいで、先日のシアタープロジェクトは3人で出かけましたがそれもいつ以来かな、というほど珍しいのでした。家の中でお相手するとか、保育所への送迎はしてるのですが、それだけではわからないものが見えるもの。ですので、本来は子ども好きなんで、もう少し時間が取りたいのですが、なにせここしばらくは仕事(選挙)最優先で動いていて、土曜日曜はとくに休みがない。申し訳ないようですが、そうさせてもらってきました。
 議会で、男女共同参画の必要性、子育て支援、など、とりあげて結構しつこくやってきていますが、とうの本人はなかなか時間が取れなくて悔しい思いもしていますねえ。でも実際、ずいぶん前に、子育てしない父親は父親ではない、みたいなキャッチコピーのポスター(厚生労働省作、だったような)があって嫌な思いをしたことがあります。子育てに参加したくたって、社会の条件がそれを許さないのに、という側面を配慮していないと。
 むろん、社会の条件のせいばかりとも言えませんが、やはり男女の勤労条件の差、であるとか、男性の労働の拘束の長さなど、それはそのままにしておいて、「子育てしない父親は」なんて、きつすぎません? 
 そもそも男性が家事育児をやると、私もよく言われますが、偉いと言われるのもいかがなものでしょうか。女性の場合、家事育児は当たり前で、おろそかにすると冷ややかな視線が待っているのです。これはおかしいでしょう。
 おかしいと思いながらも、自分では時間がさけないという、これは矛盾です。矛盾を解決するために、自分では議会でも、この問題を取り上げ続けているわけです。医者の不養生、という言葉もありますが、健康について厳しく言う医者が必ず健康ではないこともあるわけで(ことわざじたいは否定的な意味ですけれど)、そこは私はその咎を、そんなに責められないでもいいのではないかと、自己弁護をしてみるわけです(一応は)。

 しかし。娘の成長ぶりを見るのは楽しいものです。自分の子どもですからねえ。自分の子どもしか愛せない、と、自分の子どもすら愛せない、との両方を、そうならないようにと戒めていくべきと、大人社会に提言し続ける私でありたいと、いつもそう思っていまして、今日はそう思いながらもわが子に埋没する時間の大切さをも感じる私でありました。

せっかく、おニューの黄色い長靴に名前を書いてあげて、喜んで出かけたのに、水たまりを必ず避けて通ってたw