気の重い6月の始まり

 こんなに暑い6月の始まりでうんざりしていますが、昨日からの事件発覚でより気が重くて肩が痛いやら胃が痛いやらでどうしましょう。

 事件のことは不幸な事態ではあれ、冷静になって考えて、問題点の具体的処理と明らかに再発を防止する具体的対策を講じること以外にはありません。そして、それはまもなく議会の定例会も始まる中で、きわめて議会の仕事として適切なものだろうと思います。

 私は、厚木市で仕事をする人の実態を明らかにしながら、その具体的問題を明らかにすることをかなり意識的に議会で取り上げてきています。改善すべき点について、その提言の一部は取り入れられることもあり、しかしやはり繁栄が難しいこともあります。今回のようなケースでも、行政のそれぞれ担当は、自分のこととして(良心的な職員は)受け止め心を痛めていることでしょう。小さな、ことなかれ、まあいいか、前例もないし、という意識に対して、いやちょっと待てよ、もしかりになにかあったとしたらどうだろうか、と立ち止まれるか。振り返れるか。まして個人責任は問われにくい業務であるとしたら、法律に明記されていない行為についてまで、責任を負おうとすることはかえって珍しいというのがこの業界の「常識」になっているようではないでしょうか。

 ともあれ、議会もこの事態については少なからぬ共同責任を負うべき立場でないとも言い切れず、自責の念をもって受け止めておきたいと思います。

 文藝春秋の最新号でわたしの好きな作家である塩野七生さんが「政治家とおカネの不思議な関係」としたエッセイを書いています。おそらくは渡辺喜美氏のことを念頭に置いたものと思われますが、要するに女性がらみのスキャンダルではなく借金でやめることは彼女の追ってきたローマの政治家にはあり得ない話、つまり大きな政治家は借金のことでどうのこうのと細かいことを気にしてどうする、ということを言いたいように私には思えました。「借金しただけで政治生命を絶たれるような社会は、政治そのものを矮小化しかねない」とも。

 むろん、いまの日本の政治家を縛る法律がある以上、借金そのものが問題ではなく、その記載と使途が明確になっていないことを、問われてしまうので、塩野さんの言うとおりだ、文句あるか、が通用はしません。

 でも。議員の業務的特色を活かす意味では、領収書にこだわらなければならない「守り」の意識を持たせることよりは得意分野の「攻め」に徹したほうが社会への貢献度合いは高いのではないだろうか、とも私には思えてきています。長いデフレと行政改革必然の風潮の(ひょっとして意図的な何かの圧力だったのでは?)中で、議員、政治家、政党も、「守り」を問われてきた。今の時代、「リンリ、リンリでメシが食えるか」なんて暴言はいたらオシマイでしょうが、行政にも自己統制の意識が求められ、組合は互助会的な役目に、仕分け作業や外部評価に縛られ、委縮の日々。

 ローマ時代と同様ではないまでも、いっぽうで世論はトップの力に期待をする向きも強くなっているようです。相反するようですが、つまり小さなことにこだわることを求めつつ大きなことをやれ、と。この倒錯した矛盾を日本社会が抱えていることは、諸悪の一つ、と言ったら言い過ぎでしょうか。

 猪瀬氏や元石原都知事閣下、にせよ、あれは独特の文学者で、言っていることのほとんどは相当割り引いて聞いてあげなければならなかった。私とおそらくは政治主張が相当違う石原氏ではあるが、芥川賞の受賞者へのコメントなどは共感することのほうが多かったりもしました。雑誌「文學界」3月号、で氏は「芥川賞と私のパラドクシカルな関係」の対談において、おおいに本音を語っているのですが、「僕はそんな右じゃない、真ん中よりちょっと左ですよ」などと真面目に言っているのがけむに巻いているようですがようするにそういう自己評価なわけです。意味がないわけですね、評することじたいが。でも、村上春樹の文学を「ああいう無国籍の文学は」よくわからない、というように述べていたこともあり、つまり他人への評価は辛辣なほど正しかったり(私には)するわけで。

 結論、つまり、石原は守りなんてちっとも考えてはいまい、猪瀬もきっとそうだったんだろう、そこを石原は叩けないけど猪瀬は「小物」だと評価されてたたかれた、ようにも見えた、という話です。

 権力にある側ですら権力闘争に対する備えは必要でしょうが、権力に対抗する側は、さらに相当、いつでも「叩かれる」危険性があるので「攻め」だけに軸足を置けないわけです。高校野球や大谷選手以外なら、ピッチャーは投げることに専念して何ぼ、でしょう。その職種が持っている特性を考えて、もっとも有効にその職に貢献できるように、社会は支えるように成熟していく必要があるように私には思えてならないのです。そういう覚悟が問われる商売、ということで。